すなばそば【砂場蕎麦】  
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                       あんのゆらい【庵の由来】

大坂は新町遊廓の旧西大門のあった新町2丁目と3丁目の境にあたる南北筋の南側小浜町は俗に砂場と呼ばれた。この砂場門際に和泉屋(いずみや)、砂場角に津国屋つのくにや)とそば屋が二軒あって、両方とも和泉国の出身だった。

和泉屋
(太兵衛)の創業については、大坂の絵師長谷川光信が市中および近郊の名物や風俗を描き狂歌を賛した『絵本御伽品鏡』(享保15年・1730)下に、「いづみや」ののれんを掛けた店の絵が載っており、享保頃には営業していた。さらに元禄7年(1694)刊の咄本『遊小僧(うかれこぞう)』第三、「蕎麦切はや打」の条に、大座敷を構え庭には築山、蘇鉄を数多く植えた道頓堀のそば切り屋が描かれている。砂場の和泉屋と蘇鉄とは切り離せないほど名物になっていた事実から推して、和泉屋は道頓堀から新町へ移転したとも考えられる。
一方津国屋(作兵衛)は、嘉永2年2849)刊『二千年袖鑒(にせんねんそでかがみ)』三編十五に、「天正12(1584)根元そば名物 砂場」とうたっているが、裏づける資料は見当たらない。土地のものは砂場にあるそば屋というわけで、和泉屋を砂場そばと呼んだのが俗称の始まりである。安売りで評判の高い浪花随一の和泉屋も幕末には衰退し、嘉永頃には廃業したのではなかろうか。江戸では寛延(1748〜51)ごろに薬研堀の大和屋が「大坂砂場そば」の看板を掲げていた。

砂場が江戸へ進出した経緯は明らかでないが、大坂屋を名乗り半天に「○に大「」のしるしをつけるのは、まぎれもなく大坂系だったからである。和泉屋の中氏一族よりも、そこで修業した縁のものであろう。文化(1804〜1818)ごろ、評判のよかった麹町七丁目砂場藤吉の後裔は、明治年間に現在の荒川区南千住一丁目に移り、南千住砂場(長岡孝嗣)と称している。この店から慶応年間に本石町砂場(室町砂場・五代目村松毅)、明治5年(1872)に琴平町砂場(虎ノ門砂場・五代目稲垣隆一)が独立した。また、巴町砂場(四代目萩原長昭)は文化12年(1815)板の番付「名物商人ひやうばん」に載った久保町砂場が、長吉のとき立ち退き命令によって天保10年(1839)巴町に移転した老舗である。大坂に源を発した砂場そばは江戸に根をおろし、砂場会のもとに結束して繁栄への道を進んでいる。

砂場そば
大阪砂場のそば店和泉屋の図。 
(竹原春朝斎(信繁)画『摂津名所図会』より)