あんのゆらい【庵の由来】
                  参考リンク  やぶそば【藪蕎麦】
                             すなばそば【砂場蕎麦】
                            
さらしなそば【更科蕎麦】

そば店の屋号に庵号が用いられたのは江戸時代中期から。初見は、寛延三年(1750)ごろの洒落本『烟花漫筆(えんかまんびつ)』に出てくる大阪道頓堀のそば店「寂称庵」。天明七年(1787)版の名店案内書『七十五日』には、めん類店六五店が紹介されているが、そのなかに、東向庵(鎌倉河岸)、東翁庵(本所)、紫紅庵(目黒)、雪窓庵(茅場町)の四店がそろって庵号を名乗っている。
そもそも、そば店が庵号を名乗るようになったのは、江戸浅草の「称住院(しょうおおいん)」という寺に由来するといわれる。

江戸・浅草の称往院は浄土宗の檀家を持たない念仏道場で、その院内に「道光庵(どうこうあん)」という支院があった。そこの庵主は信州出身でそば打ちの名手であり、参詣者に手打ちそばを振る舞ったところ(そば粉は白い御膳粉を用い、汁は精進汁で辛味のダイコンの絞り汁だった)、これがことのほか美味であったので評判となり、江戸中の蕎麦好きが押し寄せた。このため寺だかそば店だか、けじめがつかないほどに成った。親寺の称住院ではあまりのそば人気が寺の規律を乱すとのことで、見るに見かねて再三の注意を行ったが、内証でそば振る舞いが続けられたため、天明六年(1786)に「蕎麦禁断の碑」をたてて、そば客に門前払いをくらわすとともに、道光庵のそば切りも三代で打ち切られた。

その際に門前に建てられた石碑が蕎麦禁断の石碑で、側面に「不許蕎麦地中製之而乱当院之清規故入境内」(寺内でそばを打って称往院の規律を乱すため、そば境内に入るのを許さず)と刻まれている。
この石碑は安政二年(1855)の大地震で壊れたが、称往院が昭和三年(1928)に現在の世田谷区北烏山の地に移転するに当たり、地中から発見され、再び門前に建てられた。

そば店に庵号のつく屋号が多いのは、この道光庵の名声にあやかろうと、当時のそば店は競って屋号に庵をを付けるのが流行し、先にあげた四店はその先駆けで、文化(1804〜18)の頃にはその極に達した。
今に残る庵号の筆頭には、「長寿庵」をはじめ「蓮玉庵」「宝盛庵」「一茶庵」「松月庵」「萬盛庵」「大村庵」などがある。

蕎麦禁断の石碑  道光庵