なかのそば【中野蕎麦】  
               

江戸中期にそばの需要は急増をみたが、それに見合うソバの供給が主として中野、淀橋、練馬の業者により行なわれた。とくに中野は青梅街道から江戸への入り口に位置していたところからソバをはじめ雑穀類の集散地として栄えた。
現在の荻窪、高井戸、吉祥寺、小金井、深大寺など江戸西北部で座するソバはもとより、青梅に通ずる三多摩地方のソバが馬の背に乗せられて運び込まれた。業者はこの玄ソバを精選・剥皮し、これを「抜き」と称して江戸市中に供給した。これらは当時″中野のソバ″として江戸で人気を得た。
このような地理的関係から、明治初期に中野には浅田・飯田・高野(葛西屋)・栗原(川武)・石森(吉野屋)、練馬に宮本・宮広・佐久間、横浜の保土ヶ谷に北川(多田屋)などの業者が知られ、その数は六〇軒にも達していた。