にはちそば【二八蕎麦】
                   
参考リンク    にろくそば【二六蕎麦】

 『享保世説』の享保十三年(1728)の箇所に「仕出しは即座麦めし二八そば みその賃づき茶のほうじ売」の落首がのっており、二八そばの起こりはこの頃と思われる。
二八そばの解釈をめぐって、二八は十六文の代価説と、そば粉八割につなぎの小麦粉二割の配合率説に分かれているが、これは時代を区分せずに論議してきたため。
そばの値段が二十文を超えた慶応年間(1865〜68)を一つの境にして、それ以前は二六、三四は十二文、二八は十六文の代価説。慶応以後は配合率説をとるのが正しい。そうしないと、二八うどんの説明が付かないことになる。
二八そばも時代が下がるにつれて品質が低下し、ついに二八は駄そば(粗雑なそば)の代名詞と化した。
一方高級店は座敷をしつらい、「手打ち」あるいは「生蕎麦」を看板にして、二八そばとの差異を強調した。