そばきりいなり【蕎麦切り稲荷】  
                  

稲荷にそばを供える風習は古くからあり『武江年表』の明和元年(1764)のくだりに「六月の頃より深川椀蔵大御番頭大久保豊州侯下やしき稲荷社参詣群集す、詣る人蕎麦を備ふ、八月下旬にいたり詣人止む」とある。大田南畝著『半日閑話』巻二十四の蕎麦切稲荷之事の条に、「同(宝暦六年・1756)秋、深川八幡の後稲荷時花出し、何の利生(ご利益)あり共知らず、押合々々参詣群集すと云々」とある。
ところが、享保(1716〜36)ごろに刊行された咄本『当世かる口水打花』巻四、「神変にもかなはぬ」と題して、稲荷がそば切りを無心する一話が載せてあるので、この頃から稲荷にそばを上げる習俗が普及していたとみてよかろう。
江戸小石川にある無量山伝通院境内の澤蔵司稲荷(慈眼院、文京区小石川3−17)は都内三稲荷の一つに数えられ、参詣者も多い。澤蔵司がそば好きだったとの伝承もあって、願解きにそばを供えることが古くから行なわれてきた。



じがんいん【慈眼院】

東京都文京区の無量山伝通院の境内にある寺院(小石川3−17−12)。願解きにそばを供えることで知られる澤蔵司稲荷が祀られている。


たくぞうすいなり【澤蔵司稲荷】
          
東京小石川の無量山伝通院境内に祀られ(慈限院)、都内三稲荷の一つに数えられる。
文化11年(1814)序、釈敬順著『十方庵遊歴雑記』初編下、伝通院澤蔵司稲荷の条に、そのいわれの詳述がある。それによれば、
澤蔵司は熱心な修行僧であったが、あるとき熟睡していて尾を出し、キツネであることが知れてしまう。後に山内に祠(ほこら)を建て、澤蔵司稲荷として祀られたという。

「あるとき、伝通院が火事にみまわれ、ことごとく焼けてしまう。ときの住職はキツネは霊獣にして火防(ひぶせ)の神であり、山内に祀っているにもかかわらず火災を鎮めなかったと怒り、日頃の恩を知らずと追い払おうとした。ところが、澤蔵司が住職の枕元にたち、仰るとおりで、ご恩に応えるべく八方手を尽くしたが、手下もいない自分一人では、走り回ったが防ぎきれなかった。どうか天災と思ってほしいと謝り、詫びを申し立てた。澤蔵司を不憫に思った住職は、社を建て、正一位を与え、正一位澤蔵司稲荷大明神として崇めた。この澤蔵司が学寮で修行のとき、そば切りをこよなく好んでいたため、その神前にそばが供されるようになった。才学衆人に卓越した学僧であったためか、進学、就職から、各種試験などの願掛けに訪れる参詣者が多く、願解きには必ずそばを供えることになっている。